嘘のはなし

全部作り話です

死にたいと思うだけの何が悪いの?

何か失敗したり、嫌なことがあったり、大好きだった恋人に振られたりして「あー死にたい」なんて思うことはありませんか?私は今までずっと、特段楽しいことの起こらないつまらない人生を歩んできて何万回、何十万回「死にたい」って思ったかわからない。よく「人の命を雑に扱うなんて…」「自殺するなんて…」みたいな説教かましてくるやつがいるけど、めっちゃ正論だと思う。うるせーよとは思うけど、命を大切にしないやつなんてクソだし、生きてれば何だってできるんだから自分から死ぬなんて良くない。綺麗事だけどまあ実際そうなんじゃないの。でも、自殺した人が死にたかったかなんて誰がわかるの?事情も知らないくせに他人が口突っ込んで良いことなんですか?ていうか、あなた人に説教垂れる立場なんですか?死にたいと口に出すのはいけないんですか?死んでないのに。別に本当に死ぬわけじゃないよ、死にたいって思ったり死にたいって口に出したりする瞬間あるじゃん。それって命を軽く扱ってるんですかね!死にたいなって思わない人と会話しても会話にならないと思います。だって感じてることが違うから。リストカットとかしないですよ。あれって死にたい人がやるんじゃなくて、生きてること実感したい人と、誰かに自分の存在を知って欲しい人がやることだから。こっから落ちたらとかこのまま息できなくなったらとか考えるだけで、死んでません。それってダメなことですか?

ポテトサラダ

ポテトサラダが好きだ。じゃがいもを使っていればどんなアレンジも可能なのがポテトサラダのいいところだと思う。大体、レシピを調べるとハムとキュウリが入っている。うちのポテトサラダはゆで卵を2つ潰して入れる。にんじんや玉ねぎは入れない。今日、キッチンでいつも野菜の入っているカゴを除いたら芽が少し伸びたじゃがいもと、古くなって葉の生えかけた人参が転がっていた。そうだ!ポテトサラダを作ろう。思い立ったらすぐに行動してしまう私は食べかけのヨーグルトをそのままにしてじゃがいもを茹で始めた。卵2つも茹でる、人参は半分だけいちょう切りに、キュウリは使いかけのが冷蔵庫にある。薄く切って塩揉みする。塩揉みすると味が馴染んで美味しいんだ。シャキシャキ感を出したいときはしないほうが良いみたいだけど。人参はサッと茹でる、食感が残るくらいまで。じゃがいもは皮を剥いたら、アツアツのうちに潰す。潰し終わったら塩コショウを振って、マヨネーズの容器をギューと潰す。こんなに入れるの?と不安になるけれど、マヨネーズの量が一番大事。卵を入れて潰し、混ぜたらキュウリと人参も投入。普段はハムだけど、今日は無いからベーコンで代用。めんどくさいからトースターで少しあたためる。本当は厚切りのやつを少し焦げるくらい焼いて、キュウリや人参の代わりに玉ねぎを入れたポテトサラダが好きなの。でも今日は細ーく切って見えなくなるまで混ぜる。簡単、美味しい、お腹にたまる。あんなにマヨネーズが入っているのに「サラダ」とついているだけで罪悪感が薄れてたくさん食べれる。いつもは文句ばかり言う姉が「ポテトサラダが一番美味しい」と言っていた。家族4人だとすぐなくなってしまうな。

ポテトサラダが好きだ。

朝、いつも9時に起きる。たまに起きられなくて11時ごろまで寝てしまう。私の活動時間は昼から深夜3時くらいまで。夜は眠い目を擦りながらブルーライトに照らされて、ネットの海に潜り込む。TwitterInstagramYouTube、飽きたらNetflixAmazon primeで映画を観たり、たまにはラジオを聴いたりする。大体、途中で寝てしまうのだけれど。深夜のラジオはいい。オールナイトニッポンを流していればそのうち眠れる。それは菅田将暉星野源がどんなに魅力的で面白い話をしていても。

私は夢の中で体育館といえば中学1年生の頃半年間だけ使っていた第2体育館だ。中学に入学して半年で校舎の建て替え工事が行われ、私たちは夏休み明けからプレハブ校舎に移動した。新しくなった第一体育館は中学3年生から高校3年生の4年間も使っていたというのに、私の夢には出てこない。いつも、半年しか思い出のない狭くてこぢんまりとした第二体育館が現れる。私は当時、吹奏楽部に所属していて、体育は大の苦手だった。だから体育館にいい思い出はない。使うとしても第一体育館の広いステージを借りて、文化祭や演奏会のゲネプロを行う時だけだった。なのになぜ第二体育館だけ、いつまでも私の記憶に付いてくるのか?

このことに気づいたのはちょうど2ヶ月前のある日だった。その日も仕事で疲れて帰ってきているのに、すぐに寝ようとはせずダラダラとただ時間が経つのを待っていた。気づけば夢の中、第二体育館の狭くて薄暗くてじめっとしたあの空気の中で、切れかけの電灯の下で、バスケットゴールを眺めていた。夢の内容はよく覚えていない。ただ、体育館が出てくる時はいつもなんだか懐かしい雰囲気があった。その通常より小さな空間に愛おしささえあった。

私は体育は苦手とはいえ、真面目な生徒だった。中学1年生のとき、「ラジオ体操第一」のテストがあった。他の生徒が恥ずかしがって適当にこなす中で、私は人一倍張り切ってやっていたのだろう。満点は私だけだった。その時の嬉しさが記憶の奥底にあるのかもしれない。第二体育館はいい思い出がある場所だ、と。 

目が覚めると、夢の内容は消えていく。断片的に思い出せることがあっても、今まで観ていたシーンはどんなシチュエーションだったか、どんな人が何をしていたかなんて思い出せなくなる。ただ、私は第二体育館にいたという記憶だけがぽつんと取り残されている。